東京高等裁判所 昭和24年(新を)2882号 判決 1950年8月29日
被告人
石田喜平
主文
本件控訴はこれを棄却する。
理由
前略。本件控訴の趣意は、末尾に添付した弁護人堅野光正同額賀二郎提出の控訴趣意記載の通りである。
しかしながら原判決挙示の証拠によつて、原判示事実を証明するに十分であつて、原判決に事実誤認があると疑はしめる余地がない。なるほど、本件犯行が、被告人によつてなされたものであることを、認めさせるに足る直接証拠としては、原審証人塙隆、同鷹松清心の供述を措いては他にないといはなければならないし、右両証人ともに少年で、前者は数え年一四歳(証言当時)の新制中学一年生、後者に至つては年歯僅か九歳の小学生に過ぎず、従つて原審は、これを証人として尋問する際、宣誓の趣旨を理解することができないものと認めて、宣誓はなさしめないで、夫々尋問したことは所論の通りである。しかし、九歳或は十四歳の少年といえども、その知能に応じた訊問をし、これに対する供述を求めることは、その訊問の方法や、内容について少しく留意すれば、妥当な結果を得られることは言うまでもないことであつて、単に年少者であり、宣誓をなさしめないで尋問したからとの理由で、この証拠の証拠力を弱め、これのみでは独立した証拠たるの価値なきものとしたり、或は他の証拠より証拠価値において、一段と劣るものとする必要はなく、要は裁判官の自由な判断に委ねられたところである。而して、原審が証人塙隆、鷹松清心両名を尋問したのは、右両少年が本件の犯行の被害者であり、その被害の模様、並びに犯人の面貌、風彩等について、供述させたものであつて、このような供述を求めることは、同人等の年齢に照しても、普通の知能程度を具えている者にとつては、さして困難な事項には考えられないのみならず、記録に徴するに、証人等はいずれも尋問に答えて、詳細に順序よく陳述報告しているので、事理も弁識する能力を具えていたものと認められる。してみれば原審が、その供述を採用し、その他の証拠と相俟つて、原判示の事実を認定したことは、相当であつて、原審の右認定が、採証の法則を誤り、延いて事実を誤認したものとなす論旨は理由がない。論旨は更に進んで、原審証人石田喜一、同石田きのの供述、原審検証調書の記載等により、本件が被告人の犯行でない事の資料ありとするが、右は結局原審の適法に為した証拠の取捨判断を非難するに帰着するから、採用することはできない。それ故に論旨はすべてその理由がない。